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全体 ●日日庵 ●新住協札幌 ●eベクトル/現在位置はどこ? ●e旅・街巡り/都市・建築 ●いえのえほん/その覚書 ●エンターティメント/感動感激 ●医学・医療/健康第一 ●トヨエモン/どこから来たのか ●しごと/プロであること 最新のコメント
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1 2018年 10月 05日
横浜時代は、年齢も経歴もまちまちな個性豊かな同僚たちと楽しく仕事をした。
その中で印象に残る仕事はふたつ、ひとつは馬車道通りのビルのパブ、もう一つは横浜西口のビルの1階の物販店。 前者は金属を多用したもの、後者は木の多用。 ![]() カウンターもカガミやステンレス、ワイングラス下げの金物もステンレス 同じビルで先輩Oさんがデザインした店が流行っているのを尻目に、こちらは閑古鳥が鳴いていて、間もなくして潰れてしまった。 今振り返ると、人間の安らげる暖かさが感じられないね。 先輩の方は、木やらレンガやら素材が人間的暖かさに満ちていた。 * * * いろんな諸事情を考えて、この仕事を最後に北海道へ帰ることにした。家業を手伝うことにしたのだ。 低予算の中、1.2等材の杉の板を内外装に張り巡らした。 ![]() 什器も同じように杉材、こんな形の展示にしたいというオーナーの指示通り、たくさん作った。なんせ広いスペースだったから・・ こうしてみると、展開図や什器の図面はびっしりと描いていたようだ。 写真が残ってないのが残念だね。 今から37年前のことだった。 ▲
by take2zeronine
| 2018-10-05 08:57
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2018年 07月 06日
Uターンしてきて療養中の社長だった父に最初に言われた言葉、「お前の仕事は先ず、資格をを取ることだ」を実践する。 東京横浜でのめまぐるしい生活とはかけ離れたゆったり流れる時間の中で、失業保険をもらいながら受験勉強に励む。 学科さえ通れば製図はまあ自信があったので、運良く合格する。 NO.162652、手書き時代確認申請書に書き続けた番号なので、いまだにすっと出てくる。 ![]() そして最初に確認申請図を描いた。それが岩見沢事務所の図面だった。 この写真では会長宅の庭はまだ出来ていない。 ![]() 5間間口1、2階に軽量梁が架かる。受ける柱は105×150。 北海道での初めての設計、聞きかじり見よう見まねだった。 ![]() ![]() 屋根と外壁を明確にするという意図で、エレベーションを決める。 手前は『結ホール』になる前の倉庫。 FIX窓も今の大開口納まりを彷彿とさせる。 ただよく見ると外壁に通気層がない。案の定サイディングは何年後かには凍害で改修することになる。 * * * やっと技術員が入る余裕ができたのは、1991年。 その後職員は増え続け、現在の岩見沢事務所にはぼくを入れて9人がいる。 ・1998年、事務職1人 ・1991年、技術職1人 ・1994年、技術職2人に ・1995年、技術職4人に ・1996年、技術職5人に(このあたりが転機になって増え続ける) 以下増えたり減ったりして現在に至る。 この間、事務所内結婚は2組。 築36年、構造的にはまだまだ大丈夫だけど、キャパが問題になりつつある。 設計時は5×6間の総2階、60坪の大きさで充分だと思っていたけどね。 ▲
by take2zeronine
| 2018-07-06 07:53
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2018年 06月 14日
桑沢デザイン研究所を出て1年ほど教授の市瀬さんの所にやっかいになっていたあと、横浜のショップデザインを設計施工する会社に入った。
1年半ほど高田馬場から横浜桜木町へ通った。 当時の市長は飛鳥田一男、歴史のある街で東京とは違うという、市民には確固たる誇りが感じられた。 店作りなので街の中をまるで地元民のような顔で、車で走り回っていた。 鉄柵は赤黄青の三色(うっすらとわかる)で螺旋を描く。フラットバーと丸棒で作った。(赤が出入りの鉄扉になっている) 看板はH綱を組んで、斜めっている外壁に合わせて斜めに。骨組みの鉄は鉄、電飾のアクリルはアクリルと、素材で役割を明確にすることを意図した。 でもこのビルは1年ほどで退去、関内に自社ビルを建てて移ることになる。 ![]() ![]() 1階が受付とショールームで、このインテリアも担当した。 玄関入ってすぐの手すりもスチール。 天井には清家清の影響で、HPシェルの格子を吊った。 壁天井はモルタル木ゴテ仕上げを白く塗って、白黒と造作家具の木地色に色は限定する。 ![]() カウンター、スチールの骨組みに白ラワン集成材とシナベニヤ ![]() ![]() 天板白ラワン集成材、キャスター付スチールの足、細くほそく、丸棒で補強、ブレース形状だと足が入る。 床は黒のロンリューム、巾木はモルタル目透かしの目地。 ▲
by take2zeronine
| 2018-06-14 08:15
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2017年 03月 15日
当時安藤忠雄の『住吉の長屋』(1976)が業界では話題だった。1979年に建築学会賞も受賞している。その記念だったか、講演も聴きに行っている。学生たちにも人気があったと思う。ぼくも影響を受けた。
桑沢デザイン研究所で、どう見ても住吉の長屋を連想させるような課題が出たのは、そんな時だった。 ![]() 奥行きは図面からみると、9.5間くらいか・・ 構造はまさにRC壁式。 家族構成は子供ふたりの典型的4人、内外にアトリエがあるので職業は彫刻家か・・ ![]() 鉄筋下地が表れたりするのは「下地窓」からきていて、最上階に茶室があるところからの影響か。 ![]() 札幌の場外馬券売り場の壁面、ステンレスの折り曲げた造形の模型は、ぼくが担当して一所懸命造った覚えがある。 ![]() ![]() このときのぼくの頭の中は、どんなことを考えていたのか。38年前に遡って、当時の図面から想像していくのも、いろいろとおもしろい。 * * * 桑沢時代は、いろいろな事務所にバイトで送り込まれた。 清家清のデザインシステムは、事あるごとに呼ばれて、一緒に行っていた友のTTは就職してしまったくらいだし、伊藤さんの『MOV』からもよくお呼びがかかった。 原宿森英惠ビルの裏にあった椎名英三の事務所にも何回か通った。それぞれに個性が事務所の雰囲気を醸し出していて、こんなふうにものづくりがなされていくのかと、影響された。 椎名さんの事務所で、表参道の喫茶店に連れて行かれて、50角スチールパイプでつくるガラスのサンプルケースの図面を描かされた。後日完成品をみて、自分で描いた図面が現物のものになっているという嬉しい体験を、その時初めて味わった記憶は今でも鮮明だ。 ▲
by take2zeronine
| 2017-03-15 11:05
| ●いえのえほん/その覚書
2017年 02月 28日
桑沢デザイン研究所の設計課題で『150㎥の容積に納まる家』というのがあった。今から40年近く前の話である。
面積じゃなく空間のヴォリュームが規定されているというのが、ミソである。 だから小さい子供だったら、容積は少なくていい。 ![]() ![]() ベッドは卵型 ![]() ![]() ![]() 最初は螺旋階段、微妙なズレが表現できなくて、ボツになったようだ。 ![]() ![]() ![]() 若いときの感性は、やはり捨てがたいモノがある・・ 指導教官は遠藤誠之先生、この評価は確か95点だった。 エンちゃん(あだな)に遊びの来いといわれて、本気にして上田の実家に夏休み訪ねていったことがある。軽井沢の著名建築家の建物を案内してくれたり、とても良くしていただいた。 今、どうしてるんだろうな・・ ▲
by take2zeronine
| 2017-02-28 11:51
| ●いえのえほん/その覚書
2017年 02月 10日
1970年代はぼくの20代で、東京での学生時代と成り立ての社会人時代が、大半になる。
大学を出て就職せず、親に援助を仰ぎながら生活費をバイトで稼ぎ、夜の授業の桑沢デザイン研究所に通った。桑沢デザイン研究所は、桑沢洋子がドイツのバウハウスに刺激されて、日本でもと、立ち上げた学校だ。 その建築部門を任されたのが清家清で、ぼくの頃は彼の教え子ふたりが、専任の教授陣でいた。 ともに清家さんの実働部隊としての設計事務所「デザインシステム」のOBでもあって、行き来があり、ぼくもよくアルバイトで手伝いに呼ばれた。 ![]() ![]() あの透明の製図板で平行定規を動かすというのは、業界では話題になったはずだ・・ 桑沢の夜の部には、いろんな履歴の人たちが通ってきていた。 建築関係の職場に身を置きながら、バウハウス的教育に惹きつけれるように集まってきていた。ぼくと同じように大学を出てから学び直そうと来ていたり、芸大受験の落ちこぼれだったり、設計事務所で働きながら刺激を求めてか来ていたり、様々で楽しかった。 ![]() 井上耕一先生の現代建築論があって、そのレポートで磯崎新論を書いた。今読み返すと恥ずかしいけど、95点をもらった。彼の建築が多く建つ九州に、イソザキツアーを敢行した話を書いた。 ![]() ▲
by take2zeronine
| 2017-02-10 15:07
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2017年 02月 09日
東京での通学や通勤には、どちらもけっこう電車に揺られた。そんなこともあってか、週刊雑誌や週刊コミックはよく購入して、車内で読むのが習慣になっていた。
週刊朝日か週刊文春だったろうか、秀逸な広告が連続してページを創っていた。開高健がまだいたのかどうかわからなかったけど、コピーライトも冴えていた。 そんな切り抜きが、資料室から出てきた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ちょっと頑張って、ホワイト。 オールドなんて滅多に飲むことなどなかった。 * * * 『時代の肖像』リチャード・アヴェドン展を観て、完全に打ちのめされた。等身大にプリントされた細部まで克明なポートレイト写真が、そこに展示されていた。まるで実物の本人がいるようなリアリティに満ち満ちていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() トリミングを一切しないそのつなぎ方が、またいい ![]() ▲
by take2zeronine
| 2017-02-09 18:03
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2014年 11月 20日
最近のこのブログで登場する「かやの(三笠市萱野)の住宅」とは、ぼくの「家の履歴書」からいうと2番目の住まいで(たぶん小学校1年生から大学入学で上京するまで)、12年間ほど生活した家のことでです。親父のあとは長男である兄たち家族が改修して引き続き生活していた。
その54年間の家の歴史に終止符を打って、先日解体された。 父はその解体された住宅の地、三笠市萱野で創業、1番目の家は(まだかろうじて現存しているから、築65年以上だ)13.5坪の広さで、隣接して事務所が渡り廊下でつながって建っていた。 こちらは曳家(ひきや)や改修を繰り返しながら、今も現役で使われているから、すごい。 その事務所の2階を、住宅解体に併せて整理した中で、ぼくがUターンして間もない頃の図面が、図面ケースごと(父の代で長く図面を画いていた人は、Oさんで彼のものもたくさんあった)出てきた。 ![]() 右に並ぶスチールの図面ラックより、断然いい味を醸し出している。 ![]() もちろん当時は、トレーシングパーパーに鉛筆で画いて、青焼きするという設計図書のパターンだ。 旅館の1階1部を雑貨屋さんのショップに改装するという小さな仕事、にもかかわらずかなりの枚数の図面を画いていたようだ。 ![]() ![]() 人間て何でも慣れてしまうと飽きてしまうという習性の動物で、CAD出始めの頃は、精密でキレイでなんとすごいもの、と感じていたけど、所詮機械、味わい深いところからは、ほど遠いね。 ![]() でも丁寧な仕事をしているようです ![]() ディテールもしっかり画いている ![]() ![]() 武部木工場の刷り版がいいでしょ ![]() 看板も凝ったつもり ![]() ![]() このイングショップ『 if/イフ』という店、開店から何年も経たずに閉店してしまう。何かが違ったのか、似たような形態の店として「私の部屋」があったけど、こちらは売り場面積あたり岩見沢では一番という繁盛の店になっていた。 30年以上も前の話だけど、遠い過去ほど鮮明だ。 それが図面をみて蘇ってくるから、製図板に向かってひたすら線を引く作業というのは、マウスでCADソフトを操作する作業とは(コピーペーストなどあり得ないし)、ひと味もふた味も違ったものだと思うから、結果出来上がるものも、ちょっと違ったものになりそうな気がしてる。 ▲
by take2zeronine
| 2014-11-20 11:02
| ●いえのえほん/その覚書
2014年 10月 29日
先日は小学2年生のクレヨン画、今回は小学1年生のもの。18枚出てきた中で、船(戦艦か)とヘリコプターがモチーフのものが4枚もある。また船だけというものとヘリコプターだけのものが1枚ずつ、全体の3分の1にもなる。
余程好きだったのか、見学して強く影響を受けたのか、いずれにしても54年前の7才のぼくの頭の中は船とヘリに占められていたんだろうね。 ![]() 2隻の船の遠近感やヘリコプターとの距離感、入学間もない1年生にしてはなかなかでしょ ![]() 船は4隻に増えている、その1隻にぼくがいる ヘリも迫力が増している ![]() 煙突から排出されている煙が強烈ですね そしてカモメが6羽、記名の場所がイレギュラーだよね ![]() 裏にある文章/ぼくはふねにのったゆめをみました。ごはんをたべて、ふねのなかであそんで、うれしかった。 ![]() 炎天下、2隻の船がドンパチ打ち合っているのかな。でもどちらも日の丸だから、演習なのかな、意味不明 上半分の変な印は、さらに意味不明 反戦を訴えているんだとしたら、相当なもんだね ![]() 黄色い列車、上空をヘリコプターが飛んでいる(さすがに船は飽きたのかな・・) とこんな風に、何考えていたのかなと思いながら(たぶん何も考えていない)、いいように解釈して解説をしてみるのも楽しいね・・(ひんしゅくものかな) ▲
by take2zeronine
| 2014-10-29 10:25
| ●eベクトル/現在位置はどこ?
2010年 01月 30日
我が家には、ビックコミックのバックナンバーが50冊くらいある。
このブログの11月7日に語ったように、捨てるに捨てられず地下に積まれていた雑誌の一部だ。この中には、ビックコミックオリジナルやスピリッツや月刊プレーボーイもあって、全部で250冊くらいになるだろか、ほとんどが1988年くらいから5年間くらいの間に買っていたものに集中している。 ビックコミックの残されているものは、1988~1991年にかけてのもので、たぶん週刊誌的に読み捨てているものもあるのだろうけど、月2回の発行だと4年間なら100冊くらいになるから、半分は残っている計算だ。 そんな中から、適当にピックアップして読んでみる。当時読み飛ばしていたものなどは、ほとんど記憶になんかなく、読み直してみると、とても新鮮でおもしろい。 1989年6月10日号、表紙は例の時の人似顔絵シリーズで、プロゴルファー尾崎直道、定価210円、(いま280円)下記の充実した内容でだから、安いねえ。 目次を見ると、レギュラーが「カムイ伝」「山口六平太」「純平」「ホテル」「ゴルゴ13」など7本、ビッグシリーズ2本、ナンセンスに「さすらいのギャンブラー」「どてらネコ」「まぼろしママ」「赤兵衛」の4本、読み物シリーズに「おしゃべりな目玉焼」(柴門ふみ・旦那の弘兼憲史の日常が書かれてる)「シネマホットライン」「球MANリレーション」「マイ食ッKING」すべておもしろい。「どてらネコ」なんて読んでなかったものも、今読むとおもしろい。 さらに、表紙の裏の広告ページに、キリンラガーの広告。「証言」樋口可南子、とキャッチコピーがあって、写真は20年前の頬杖を付いてこちらを見つめる、かわいらしい彼女、そして旦那の糸井重里が書いたみたいな彼女のこんな一文。(篤姫の母役はすばらしかった) ![]() でも、そんなところが、「かわいい」って評判なんです。 自分のPRはさておき、ラガーのPRをします。 私、「ラガー」という呼び方が気に入ってます。 すごく新鮮な響きを感じます。おいしそうだなって気にさせます。 近頃は、とまどうくらいたくさんのビールがあるけれど、 私は、キリンラガービールがいちばん好きです。 ラガーのおいしさは、他のビールを飲むと、よくわかるみたいです。 ラガーの広告、20年前もおもしろい! (ぼくは、ラガーのファンというわけではないんだけど) ▲
by take2zeronine
| 2010-01-30 19:54
| ●エンターティメント/感動感激
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