最新の記事
以前の記事
2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 more... カテゴリ
全体 ●日日庵 ●新住協札幌 ●eベクトル/現在位置はどこ? ●e旅・街巡り/都市・建築 ●いえのえほん/その覚書 ●エンターティメント/感動感激 ●医学・医療/健康第一 ●トヨエモン/どこから来たのか ●しごと/プロであること 最新のコメント
最新のトラックバック
タグ
スリランカ
Nubis
大人の工作
トルコ紀行
三笠ふれんず
岩見沢プロジェクト
九間/ここのま
鎌田紀彦
いえのえほん
そば農園
北海道新聞
川俣正
新住協
三笠プロジェクト
結ホール
建築家シリーズ
島紀行
TKBストリート
日日庵
いえのえほん施工篇
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
1 2010年 03月 25日
![]() 当然札幌ドームは、満員で盛り上がっていた。去年の日本シリーズで、セリーグの巨人に敗れているくやしさもまだ引きずっていて、ファン心理としては今年こそはということで、よりヒートアップしているのだろう。 結果は、惜しくも敗戦。先発は、ダルビッシュvs杉内で、均衡したゲームだった。というより、この日を照準にして調整してきているので、そんな展開になるのは、わかっていることだった。 案の定、杉内の球は走っていそうだし、(テレビで見るのと違って、球場の高いスタンドの位置からだと双眼鏡で見てもわからない)簡単に攻略できそうにないな、という時の接戦想定の梨田采配、どうもぼくのイメージする野球と違って、ストレスを感じてしまう。 さらにやっぱり4番高橋信二、ここぞという時に打って欲しいんですよ、みんな打つ時に打ったって、たいしたものじゃないでしょ。エラーしたっていい、それを帳消しに出来るようなバットでの信頼感、それが4番ですよ。09クライマックスシリーズ第2ステージの第1戦観戦記でも書いたけど、ストレスたまるんですよ。 まったくそのイメージから脱していないふたり、梨田監督、4番高橋。まさしくイメージから言ってしまえば、ヒルマンの明るくクレバーでスマートな采配と浪速のイケイケ野球との違いですかね。 むしろレフトで先発した中田翔、守備ではバックホームの返球で大暴投をしたにもかかわらず、チャンスにきっちり力ずくでセンター前にポテンと持っていくあたり、彼の方が4番の素養があるかもしれない。 野球って中だるみがあったりしてつい、ダラっと見てしまうゲームだ。でもせっかく球場まで来ているんだから、もっと楽しく観戦したい。それで、どうするか。 バッテリー対打者の1球1球の配球とその勝負に目を向ける。2ストライクー1ボールと追い込んだ時のピッチャーの勝負球は何か、一方対する打者、有利なカウントでのバッターの打撃、などそうゆう視点で打者心理、バッテリー心理まで見ていくと興味が尽きないし、局面局面で状況は全て違ってくるので、緊迫したゲームであれば、とてもおもしろい。 ランナーがでれば、今度は監督の采配の妙だ。ここならバントで送るとかヒット&ランだとか、そのサインは3塁コーチャーから出ているのかだとか、さらに観察していくと興味深い。それを自分ならこうする、という予想とかぶらせていくのだ。 一時はぼくもプレーイングマネージャーとして、『タケベホームズ』を仕切っていた経験もあって、そのあたりの雰囲気や心理的機微は、おさえているつもりなので、けっこう容易に入り込んでいける。 えっ、プロ野球と片田舎の草野球で比較なんて、とんでもない話じゃないの、って思うでしょ。いえいえ、要は想像力の問題ですね。 「タケベさん、ここでスクイズなんてないですかね。」と野球通・Kジュニア。日ハムがランナーを出した展開で、攻撃の戦略パターンを彼に散々吹いてたものだから、リードしていたソフトバンクがさらなる追加点で突き放しをねらって、ありえるのではと、今度は彼からのこんな読み。「う~む、ありえる」なんて、こんなやりとりをしながら、観戦するのはまことにだれることなく、楽しい。 ドームに到着したのは午前11時頃、指定のシートに座ったのがちょうど12時、まずはビールで一息つき、ダルビッシュ弁当で腹ごしらえ、試合は1時から4時くらいだったか長丁場、終了して地下鉄に乗ったのが5時頃、なんだかんだ6時間くらいは費やしていることになる。 監督と4番にストレスはたまったけれどそれも含めて、それだけの時間分とてもおもしろく観戦できた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■野球通・Kジュニアとの1度目の観戦レポート ▲
by take2zeronine
| 2010-03-25 08:17
| ●エンターティメント/感動感激
2010年 03月 20日
![]() 京都では市バスを3回以上乗ると元が取れる500円の1日券で、観光客になっていつものように廻る。 泉涌寺は、208系統。七条通の国立博物館・三十三間堂を経由して東大路を南へ下り九条通を廻るルートで、混んでなければ10分前後で着く、バス停「泉涌寺道」で降りる。そこからぷらぷらと総門、参道、大門へと歩く。 大門をくぐってからアプローチするときに見える「仏殿」は、すばらしい!くぐって見下ろすように見えてくる遠景のプロポーションも、間近に見る繊細な造りのディテールも、「仏殿」は後ろ隣の「舎利殿」と比較して見ると、そのすばらしさがよくわかる。伽藍配置の距離感もぼく好みだった。 お昼前の11時くらいから3時頃まで4時間滞在して、今回の目的は達成し、疲れたのでコーヒーでも思い、国立博物館に戻ってお気に入りのカフェを目指すも、月曜休館。う~む残念、仕方なく今度は東大路を北へ向かうルートで祇園まで行ってみる。この時点で市バス3回のノルマは達成し、適当な店を探して、またぷらぷらしていると、想いは通じてカフェに出くわす。 町屋の民家に少しだけ手を入れて改修し、ギャラリーとカフェにしたもの。なかなか雰囲気も良く、店主の女性の、もてなしも暖かくて気持ちがよい。客席が10席程度の店内には、今まで展覧会をした作家たちの作品がそこかしこにあって、お客は我々だけで、ひとしきり談笑しながら長居して、最後に今夜の晩飯のご推薦の店を聞く。 ガイドブックにない地元民がよく行く居酒屋のいいのが、堺町通りにあるとのこと。それじゃあとさっそく行って、おいしい料理とお酒をいただき、その日はベットに倒れ込むように眠りに落ちる。当然翌朝の起床はゆっくりで、じゃあブランチでもと、再び国立博物館の入り口にあるカフェ「からふね屋」へ再挑戦。展示は休みだったけど、カフェはオープンしておりました。 このエントランス廻りは、カフェも含めてお気に入りの建築家・谷口吉生設計で、お得意の細い柱に支えられた、うすくて深い軒下空間にせせらぎが流れ、ガラスの仕切りが屋外空間と一体化する。まるでミースのバルセロナパビリオンを、数寄屋建築のコンセプトで現代建築に再翻訳するとこうなるという感じ。「細部に神が宿る」というミースのように、ディテールも簡素にして繊細で美しい。 ![]() ブランチだから、ランチメニューのデミグラスハンバーグランチとコーヒーのセットメニューを注文する。これがなかなか充実していて、お手ごろの価格で美味いのだ。 ![]() 平常展示館が建て替えの工事中の光景が見える。仮囲いの中で、杭打ち機械が4本、クレーンが2台立っている。 店内はBGMに、有線でJAZZが流れていた。ちょうどマイルスなのか、ミュートの効いたトランペットだった。それが外のクレーンの緩慢な動きに、鋭くシンクロしているのだった。とても現実的な光景が、却ってシュールでアートなのだ。味覚の満足感に、視覚と聴覚が絡んで、絶妙で美しかった。 また川俣正のことを思った。 全てがやけに日本的で、このタイミングの京都に来て、よかったと思った。 ![]() ▲
by take2zeronine
| 2010-03-20 08:22
| ●いえのえほん/その覚書
2010年 03月 11日
覚書9・家並み・町並み/歌舞伎町、佃島、そして北海道『Kヴィレッジ』
■その2 1973年4月、東京での生活が始まる。 ぼくは、大学へはまじめに通った方ではないけど、それでも年間100日くらいは計算すると学校へ行っている。その通学途中には、西部新宿駅と新宿西口を徒歩で歩く区間をあえて挟んでいた。西武新宿駅は、駅を出ると歌舞伎町だ。だから朝晩は、通学路として良く歩いた。ゴミとたばこの吸い殻とヘドのやけに目立つ汚い静けさの朝と、バカみたいに活気ある脳天気な眩しいくらいに明るい夜との落差も、あの雑多さが統一感になっている町並みも、すごいエネルギーに満ちていたのではないだろうか。外国から来た建築家は、京都より先にまず、歌舞伎町を視察したがると聞いたことがあるくらいだ。 女の子と夜歩いたりしたこともあるけど、そんなにディープな歌舞伎町を知っているわけではなかったし、だから怖いと思ったこともあまりない。映画館やJAZZライブハウスとか仲間でよく行く飲み屋とかで、せいぜいネオンのきらびやかな中をプラプラしていた程度だ。そして、我々みたいな若者がいっぱい、同じような目的で歩いていたわけで、その範疇に納まっている限り、問題はなかった。 まあ、通過点の途中下車、そんなイメージだ。 むしろ、大学を出てから通学拠点が、渋谷公園通りNHKの前の桑沢デザイン研究所に移ってからの方が、多少なりともディープな渋谷に精通しているという実感はあった。 その桑沢時代、東京杉並区生まれの工務店の跡取りK・Oや江東区生まれのY・Iと仲良くなる。片や山の手、一方対照的に下町。ある時下町のY・Iが、湾岸のお台場や佃島や夢の島を案内するから、行こうということになった。まだまだ、埋め立てが進む前で、お台場はちゃんと海の中の砲台跡だったし、ウィンドサーファーが楽しんでいたし、佃島は荒川河口の島だったし、夢の島も湾岸に浮かぶ島だった。それが今も地図で確認してみると、もはや内陸になってしまっている。荒川と隅田川に挟まれた江東区は、埋め立てで広大な陸地を海へ広げたのだ。 あの時潮風(?)でボロボロになったのれんを下げていた老舗佃煮屋さんや、住吉神社周辺の密集した家並みは、衝撃だった。あれだけ狭い路地を挟んで建つ住宅群には、いったいどんなコミュニティがあったのだろうか。Y・Iに言わせると、路地の入り口には、必ずその路地を管理監督する仕切のお婆さんが立っているということで、実際それらしき人が立っていそうだった。 そんな家並み町並みに感化されて、北海道に戻って20年以上、やっと地に足がつきだしてきたころ、「Kヴィレッジ」の仕事が舞い込む。 札幌山の手の住宅街、3ブロックに渡る街区の老朽化した借家群の建て替え計画だ。コンセプトは、江戸時代の長屋のコミュニティと、様々な家族形態とライフスタイルに対応出来るように、一つとして同じプランのない、木造戸建て住宅が複雑に入り組みながら展開する住居群、というもの。志の高さからか、オーナーが友人ということもあって、すんなりと受け入れられたのは、ありがたいことだった。 全て完成すると19戸くらいの計画のただいま13戸、2003年にスタートして、まだ道半ばだけど、通りには統一した街路樹と枕木の街路灯を配して、経済効率からつい高い建物になりがちな地域で、せいぜい3階建ての木造住宅は、近隣の住民にも安心感をあたえているらしく、すんなりと地域に馴染んでいます。 ▲
by take2zeronine
| 2010-03-11 21:51
| ●いえのえほん/その覚書
2010年 03月 07日
覚書9・家並み・町並み/伊勢へ七度(ナナタビ)熊野へ三度(サンド)
■その1 ぼくの最初のお伊勢参りは、確か1977年だったと思う。 伊勢神宮内宮の参道の中間くらいの位置にある、あの有名な「赤福」から清家清に依頼があったというのが、発端だった。 ドイツのバウハウスに感化されて、桑沢洋子がデザイン研究所を立ち上げた時、建築住宅デザイン部門の担当として、招かれたのが建築家清家清であった。その桑沢での教え子に、ぼくの担任であった市瀬(昌昭)先生がいた。(のちに、桑沢デザイン研究所所長) ある時先生から声がかかる。「武部、ちょっと数人アルバイトを集められないか。」そうやって人選を任されたぼくは、全く勝手にぼくの基準で、これはと思う仲間たちに声をかけて数人集めた。中には、1週間くらい泊まりがけということに難色を示す、東京生まれのヤツもいたけど、おおむねみんなすぐにOKした。 仕事の中身は何だったかというと、デザインサーベイだった。伊勢に泊まり込みながら、あの「赤福」のある参道「お祓い街通り」に面する建物のファサードを実測するというものだった。もちろん「赤福」自体は、内部まで詳細に計って記録した。 ワゴン車のルーフキャリアーの上に乗っかって、700メートルくらいある「お祓い街通り」を、何回も行き来しながら、写真を撮り実測しスケッチし、時にはルーフキャリアーの上に腹這いになり、通りをぶっ飛ばしてスーパーマンごっこをしたりして遊んだ。現在の通りからは考えられないけど、その時の「お祓い街通り」は見事に閑散としていた。だから、その打開策を求めて、清家さんのところに依頼が来たということらしい。 そんなことはお構いなく、ぼくたちは慣れてくるにしたがって、まるでわが町のごとく好きなように歩きまっていて、商店の人たちとも顔見知りなったりしていた。ある朝は、赤福社長がオースチンに乗って、ちょうど車庫から出てくるところに出くわしたりした。 当時、清家さんは「デザインシステム」という設計事務所を実質的に仕切っていた。その時の実測メンバーだった友人S・Tは、これがきっかけで入所したという経緯がある。その「デザインシステム」からトップのひとりSさんが、われわれがちゃんと仕事をしているかの様子見も兼ねて、陣中見舞いにきた。清家さんも一緒に来たと思う。清家さんはぼくたちに「日本は雨が多い、だから雨漏りも当然することになる。」という含蓄のある言葉を残して、早々に引き上げていったけど、Sさんは残ってぼくたちと一緒に東京へ帰ることになったと思う。そのSさんに連れられて、ぼくたちはその夜御馳走になった。 伊勢といえば、まず松阪牛だ。その時の晩飯は、松坂まで行った。タクシーに乗り、運転手に彼が言った。「松坂で一番美味しい松阪牛の店に行ってくれ。」店に着くと、「この店で一番いい肉を出してくれ。」 奥から店主とおぼしき人が持ってきた肉を説明した。「これは東京でも簡単には手に入らない、極上品です。」と言って、生のまま調理されたものがテーブルに出された。 たいした味覚体験があるわけでもない、食生活の貧しいぼくたち若造にでも、その肉を食したとき、明らかに今まで体験したことのない美味しさが、口の中で広がるのがわかった。 次の日は帰りの道中、昼ご飯は浜名湖に寄った。Sさんは昨日と同じように、浜名湖で一番ウナギの美味しい店を聞き出し、その店でまた一番美味そうなメニューを選んで御馳走してくれた。世の中には、まだ知らない美味しいものがたくさんなるのだということを、身をもって知らされた。 日本経済は、まだまだ高度成長を続けている最中の景気のいい時代、「デザインシステム」もまた景気が良かったんだと思う。そして、食べ物で受けた恩は、いつまでも消えることなく残っている。 そんなデザインサーベイをした成果を、何かの雑誌に発表する図面描きを帰京後手伝い、そこまでの記憶を残して伊勢赤福のことは忘れていた。 それが、何年かして再開発の事例として発表されていたりしたのは、メディアでは見て知っていた。 そして20年は経過、再訪する機会が訪れる。当時とは比較にならない賑やかさが、通りを行き来する人たちによって出現していた。デザインサーベイした以前の店のファサードも統一感が見られ、全体が醸し出す雰囲気がとてもいいのだ。たぶんそれは江戸時代の賑わいにも共通したもののような気がした。 コンセプトにそぐわないと思った新しい鉄筋コンクリートの社屋を木造に建て替えたという、その結果出来た「おかげ横町」は、赤福の心意気が見事に結集して、成功していると思った。 ひとは、いつのどんな時代にも、心動かされるものは、同じなのだと思う。それは本能的で根元的なものだ。 その後、立て続けに訪れる機会があった。いつも老若男女で賑わっていた。数えてみると、お伊勢に5回、熊野へ1回行ったことになっていた。あと2回、それぞれにあわせて行くと、「伊勢へ七度(ナナタビ)熊野へ三度(サンド)」を達成することになる。 そこには繰り返し行くという期待感を抱かせる、楽しみがあるからだ。 ◇この再開発に関しての的確なレポート http://www.townnet.com/tsunagu/iseokag.html ▲
by take2zeronine
| 2010-03-07 12:14
| ●いえのえほん/その覚書
2010年 03月 01日
だからみんな好きなんだと思う、ラーメン。
北海道では、小さい頃からみんな食べているから、嫌いになんてなるはずがない、ラーメン。 ぼくたち高校生が、学校の帰りよく小腹を空かせては立ち寄った、あのラーメン屋さんは、今はもうないけど、確か学免ラーメンは、醤油味で80円だった。なぜか味噌ラーメンは大盛りで、それでも100円。安かったなあ、と思うけど、駅前の立ち食いそば屋さんが50円だったから、妥当だったのかもしれない。 今から40年前の話で、当時高校1年生のぼくの1ヶ月の小遣いが、1500円。何がきっかけでのめり込んだか知らないけど、ボブ・ディランにはまり、その1500円で毎月彼のレコードを1枚ずつ買うことにしていた。ただ、彼のLPレコードは、1800円。それを毎月買うからと、駅前のムラタレコードの親爺に交渉して、1500円にしてもらって、ディスコグラフィーの順番通り、すでに発売されている10枚くらいを連続して買い続けた。 その計画は、同じ幾春別線で汽車通学しているS・Nに打ち明けたとき、俺も一緒に交渉してやるといって、付いてきてくれたことが発端で、そんな高校生の交渉に快くいいよと言ってくれた、まだ若かったレコード店主のおかげでもあって、思惑通りになってくれた。 そんな物価感覚の時代、やはり80円のラーメンは安かったのではないか。 岩見沢では、数軒のラーメン屋さんが連なる通りへ中央通り側から曲がる、5条通にその店「I」はあった。でもぼくたち高校生の空腹を満たしていてくれたその店は、しばらくして突然、閉店になってしまった。たぶん、ぼくたちのために、あまりに安くしすぎたためではないかと、ぼくたちはちょっぴり責任を感じたりもした。 似たり寄ったりこんな地元高校時代のラーメン体験を持ちながら、東京の大学に進学した。今ほど個性的なラーメンが巷にあふれる以前で、ちょうどサッポロラーメンが東京進出しだした頃だと思う。あまりにサッポロラーメンがもてはやされていたので、岩見沢のラーメンも美味いよと、雑誌「宝島」の読者の声に投稿したら、掲載されたりした。 だからあまり東京でラーメンを食べて美味しいと思った記憶がなく、もっぱら岩見沢に帰省した時、数軒連ななったラーメン屋さんの1軒「R」へ、良く食べに行ったりしていた。 そうして1980年代にUターン、そろそろ個性的な店がいろいろと出現していた。 みんなラーメンが好きだから、それぞれ贔屓の店があり、どこそこのは美味しいと噂してくれ、また食べに連れて行ってくれる。だからみんな、そこそこラーメン通になるし、好みも主張をしはじめる。岩見沢では、かあさんがやっていた時の「S」は、ぼく好みのあっさり味でチャーハンも美味しかった。 自分で作っても、いろいろスープと生の麺のセットが売り出されているから、シャキシャキもやしが主の野菜炒めを入れるだけで、もうそれだけで充分美味しいラーメンが出来あがる。 結局ぼくの好みは、醤油味あっさり系ということになる。 だからといって昔風シンプルラーメンでもない。娘たちがまだ小学生低学年の頃、学校のスキー学習の予習のために、萩の山市民スキー場に夕方連れて行って、何本滑ったら一休みと言って食堂で休憩して食べていた、あのパートのおばさんたちが作るシンプルラーメンもとても美味しかったけど、今まででやはり最高に忘れられない味は、あの醤油味あっさり系だった。 それは、ぼくの親戚のおじさん作るラーメンだった。 おじさんは、ラーメン屋さんをやっていた。個性的ラーメン屋さんが出現しだした頃、店を始めたと思う。かなりの準備期間をもって研究をし、開店したと言うような話を聞いたことがある。店名は、ごく一般的な「来々軒」というその店は、ススキノで酔客相手の深夜営業がメインだった。けっこう繁盛していて、ピークの時間帯には長い行列ができていたし、だからだろう、テレビでも何度か紹介されていた。 なかなか直接店に行く機会を逸していた中で、札幌でも飲み会がだんだん増えだしていた頃、ある時飲んだ仲間を連れて食べに行ってみた。 そっとビールをサービスして出してくれ、そのあとにでてきた醤油味のラーメンを一口食べた時の衝撃は忘れられない。思わず「美味い!」と口走っていた。とにかく口に含んだ時のサッパリ感、あっさりしているのにコクがある。こってり濃い味系で刺激する味とは、対照的なとても爽やかな味だったのだ。 その後何度か行ったけど、いつ食べても美味しかったのに、今はもうない。 結局、古い建物の賃貸物件で漏電か何かから火事を出し、場所も変わったりした結果、閉店してしまった。あのラーメンが食べられないと思うと、非常に残念だ。 想いと味覚は増幅され、だからぼくの中での最高のラーメンは、やっぱり「シュンおじちゃん」の作る醤油味のラーメンなのだ。 ▲
by take2zeronine
| 2010-03-01 06:18
| ●エンターティメント/感動感激
1 |
ファン申請 |
||