最新の記事
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 more... カテゴリ
全体 ●日日庵 ●新住協札幌 ●eベクトル/現在位置はどこ? ●e旅・街巡り/都市・建築 ●いえのえほん/その覚書 ●エンターティメント/感動感激 ●医学・医療/健康第一 ●トヨエモン/どこから来たのか ●しごと/プロであること 最新のコメント
最新のトラックバック
タグ
いえのえほん
日日庵
川俣正
三笠ふれんず
建築家シリーズ
三笠プロジェクト
結ホール
九間/ここのま
岩見沢プロジェクト
そば農園
新住協
北海道新聞
TKBストリート
7尺モジュール
メキシコ
自邸
キリスト教会
いえのえほん施工篇
健康第一
過去へ遡る
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2010年 02月 13日
覚書7・階段/古今デザインの見せ所
ぼくが卒業した大学の建築学科での最初の課題に、「階段」があった。 確か、6m×6m×6mの空間に階段をデザインせよ、というもの。この課題で即座に反応できる学生は、建築的に早熟だと思う。 ある程度実務としての設計に関わっていないと、6m×6mの広さがどのくらいのものなのか、高さ6mがほぼ2フロアー分の階高を意味しているとか、実感としてわからないと思う。 建築設計では、よく言われる「スケール感」が大切だから。 とは言っても「スケール感」は天性のものだから、経験だけがものをいうわけでもないんだけど・・。 住宅レベルでは、1.82m×1.82mとか0.91m×3.64mのスペースでもあれば、納まってしまう階段。現に我が家の螺旋階段は、1.82m×1.82mの1坪に納まって、地階から2階まで伸びている。ということは、6m×6mの広さなら、住宅レベルではなさそうだ、というようなイメージを膨らませながら、あるいは逆手にとって住宅レベルとして、あえて提案するとか、その発想を行きつ戻りつ検証しながら、先生の指導を仰ぎながら、進化させていく。そんな本来の意味での大学教育に、建築設計に晩生(おくて)のぼくの場合はなりえなかったというべきか、単に出来が悪いだけだったか。 教育とは、そういうダメだった記憶も重要で、それがまた次に結びつけばよい。 時は経ち、桑沢デザイン研究所の課題で、「100立法メートルの家」というのがあった。 ルイス・キャロルにハマっていたぼくは、アリスと生活する家を100立法メートルの中で考えた。 通常天井高さを2.4mだとすると、12.5坪くらいしか広さがとれない。そんな中で、アリスのサイズの階段と大人のルイス・キャロルのサイズの階段を二つ造り、その勾配が微妙にずれていきながら、大小二つの卵形の寝室ベットにつながるという提案をしたことがある。 これは階段にとどまらず、キッチンやそのほかの部分も二つのサイズで、混沌としている様子をデザインして、それなりの評価をいただいたけど、建築設計におけては、その人なりの体験と発想をどう混ぜ合わせて消化させていくかということが、大切なのだというのがわかる。 そんな、階段。 その勾配や長さや巾にも、ある基準があって単に緩いから上がりやすいとか、急だから上がりづらいといものでもない。 緩やかな方へ向かえば、スロープとなり、その分スペースは大きく必要になり、急な方へ向かえばハシゴになって、スペースは最小限ですむ。どちらの要素が強まるにしても、その中でその人にとっての最適な一段がある。つまり一段分の高さと足を置くその奥行き巾の、自然な一歩の歩幅。 公共の不特定多数が利用するものと違って、特定の個人が利用する階段には、それなりに違いがあって当然である。どうも日本家屋における階段の伝統は、ハシゴに近いかなり急なものであり、ご老人が上がり下りするなんて想定外で、むしろ1階部分にしか重きがなかったような気がするから、最小のスペースで納めてしまうような、誰が上がり下りするかなんて考えられていない。西洋と違って、つまり住居とは平屋で、現代みたいに2階やあるいは3階がメインフロアーになるなんて発想はなかったのだと思う。 ところが階段が主役に近い形で登場してくると、構造や素材によって存在感が俄然違ってくる。 一直線であったり折り返しがあって踊場があったり、カーブしていたり螺旋であったり、良くも悪くもデザインしたくなる。 困ったことに場合によっては、上がり易さや安全性よりデザインが優先してしまう。 たとえ存在を消そうとデザインされた、手すりのない階段でも、何かを手がかりにすることを身体は覚えるし、別に何段かという段数を頭で覚えてなくても、身体がこの段で上がりきりだということを知ってしまっている。 人間とは、いかに順応性があることか。 その順応性が最大限生かされる階段、素材でも構造でも手すりでも、良い意味で、身体や皮膚の記憶に残りやすいものであって欲しい思う。
その実務としての最近の例。 側面に太陽の明かりをいっぱい取り入れるための大きな窓があり、ゆるい階段で横断面積は長くなるけど、でも透かせたい。 それで構造は、小さな断面でも強度がある、スチール製。 ほとんどを直径12ミリの丸棒と30×3ミリのフラットバーで組み合わせる。 手すりもなく段板も透明な部材だとさらに透けるところを、あえて必ず触る手すりと足裏にフィットする段板の素材は木。 となれば、手すり子はフラットバーにして、その上にのせる手すりは、握りやすく削りだした一本の桧、そして段板は柔らかくしっかりグリップできる、ノンスリップに堅木を埋め込んだ杉板となる。 これできっと住人には、削り出された桧の微妙なデコボコ感も、傷や凹み、汚れや汗が染みこんだ杉板の感触も、ごく自然に身体や皮膚の記憶となっていくのではないだろうか、と期待を込めたのだった。 *
by take2zeronine
| 2010-02-13 21:49
| ●いえのえほん/その覚書
|
ファン申請 |
||